辛いものも甘いものも

美少女ゲームの感想や日々感じたことを記述するブログ

無能な自分に絶望する

 海外勢が集まるコミュニティで知った「built different」という言葉が、それを初めて知ったときから、ずっと頭に残っている。先天的な優生ということだ。自分は誰かより勝っている(何の分野で?)かもしれないが、もちろん、自分は誰かより劣っている。

 

 誰かと、同じ物事を同じ時間でしても、終了する時刻が異なる。大抵は、自分より相手のほうが早く終わる。すべきことをてきぱきできない人間をわざわざ好む者はいない。私は敗者なのだ。そう感じたとき、毎回胸が苦しくなり、居場所を失い、存在する価値を喪失した気分になる。実際、自分は無能で無価値であるから、誰にも信用されないし、誰も改善点を教えてくれない。

 

 時々、そのような気持ちがある程度続くと、生活に支障が現れる。何もしたくない、何もできない、体が重い。心も重い。Google 検索で「しにたい」と検索する。一番上に出てきたサイトに書いてある、フリーダイヤルに勇気を出してかけてみる。無機質な機械音声に門前払いされて、せっかくの努力すら侮辱される。もしかすると、生身の人間が事前に放った言葉なのかもしれないけれど、そのようなことを考えている余裕は一切なく、とにかく話を聞いてほしくてたまらないのだ。

 

 しかし、自分の不幸な話を聞いた人は、その人すら不幸になってしまうのだろう。負の連鎖は自分で止めないといけない。そもそも負を生み出したのは自分であり、他の健全な人に毒を塗りにいくなどしてはいけないのだ。でも自分で生成した毒に窒息しそうになると、どうしても他人に伝えたくなる。本当に生きる意味がない。

 

 他の人より優位になれる方法はない。なぜなら「built different」だからだ。生まれつき持つものは違うのだから、ないものねだりなのだ。今までも、これからも、自分は自分より優れている誰かの餌となり、飼い殺しにされるだけの人生に違いない。誰かの成功を祝い、自分の失敗を責められ、永久に貧しく生きる。死にたくても死ねない。そんな勇気すらないし、死んだら数時間後には「自分のいない世界」として世界が動き出すのだ。無能な自分が一人減ったくらいで、誰かの迷惑にはならない。

 

 唯一心配してくれるのが親ならば、それは幸せなことだ。しかし、自分はそうは思わない。なぜ他の人は先輩や後輩、同僚に子供、年寄りにまで尊敬されるのに、自分にはそれがないのか?怒られたって構わない、それは贅沢だとは思わない。他人に標準装備されているものが、自分にはないのだ。それを欲しがって何が悪いのだろうか?

 

 自分を気にかけてくれる人が親しかいないのならば、それはつまり、毒を塗る人がごく少数ということだ。どろどろの原液で濃度が高い死の液体を一番大切な人に塗りたくる。自分は死神である。一方、毒が薄ければ、ある人には薬となり、当人を励ますきっかけにもなるだろう。

 

 無能な自分が頑張って例え話をすると、誰かに「死にたい」と言うより、「最近〇〇がうまくいかなくて、気分が落ち込んでいる。なんだか清々しい気分とはいえないし、ちょっとしんどいんだよね」と言ったほうが、会話の返球をし易いし、そこまで気を害しないですむだろう。負の情報を与える以上、相手まで嫌な気分にさせてはいけない。もし相手が「励ますこと」で自分の存在価値を知り、自分を認めてくれるなら、それができる手段をとったほうが当然良い。

 

 どんなに優劣があっても、死んだら意味がなくなる、というのはあると思う。どうせ100年後には、少なくとも自分にとってはこの悩みなど不毛である。せめて、人類の一生において、良いこと(プラス点)と良くない点’(マイナス点)の差が一定の値をとることになっていればいいのに、と思う。先に得した人は、後々そこまで良いことは怒らない。逆に最初苦労した人は、後で報われる。結果を知っていれば、かなり楽になれるのに、この人生というゲームのルール説明は、生まれてしばらく経った今でも不十分である。

 

 よく「最終目標から逆算することで、途中の目標や今の進捗を見つけやすい」と言うが、人生の最終目標は誰にもわからないし、良いことと悪いことが道中でどのくらい起きるのか、その割合がわからない以上運ゲーであると言わざるを得ない。正直、貧富の差は、個々によってかなり存在すると思う。産まれた国の時点でもう幸せだとか、普通に五体満足で生きられているのにまだ欲があるのかだとか、耳が痛い意見は多くある。しかし、それらはもっと上にいきたいという欲望を抑止する理由やきっかけには到底ならない。いくら誰が欲張ったって、しかも他人に迷惑をかける状態からかけない状態に脱却しようとしているのだから、別にかまわないのではないか。

 

 こうやって死にたいだとか消えたい気分になって、誰も話し相手がいなくて、誰に読まれるか、読まれないかもわからない場所に気持ちをぶつけることができるのは、少なくとも自分が持つ一つの幸せである。でも、もっと良い方法があるはずだ。「built different」の差を埋めるつもりは全くないけれど、ちょっと頑張ってみて、絶望して。また死にたくなって。その繰り返し。とりあえず生きるけど、でも死にたい気分と常に隣合わせである。